studioCampanella blog

どうも生きづらい貴方と僕と音楽と

2017-03

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音楽厨になれ

 
 思えば、格好つけるという事に理性的でいられない中学生の頃、トサカを誇示する雄鳥のように変貌していく小学校来の友人達に嘆息した時に、格好つけることに対する嫌悪感が刷り込まれてしまっていたのだなあ。


 この社会で人を相手に生きる以上、結局のところ価値観というモノは、自分のモノではないのだなあ。理性、知性、感性の平均値が払う暴力こそが、様々な価値を産んでいるのだなあ。


 カッコイイだろ?というアプローチは、それを行った時点で、受け手に対し共通項の皮を被って迫っていくようなもので、受け手がその音のコスプレに反応し続けて育っていくうちに、その原作を図々しい理念でもって「一方的に共有」しようとする感性が育ち、そうして音楽の歴史は音楽的価値に因らずトサカによって暴虐的に進んでいくのだなあ。そうして生まれた平均値が暴力を働くのだなあ。
 音楽を評価する役割が音楽的感性からトサカにとってかわったのは、大雑把に言って Rock が偶像を産んでからなんじゃないか。しかしそれは必然だったろうな。ファッションも音楽も人間のトサカが担当する分野だということを、どうして僕は受け止めきろうとしなかったのか。
 その理由が冒頭のものになるのだとしたら、思っていたよりもチープでやりきれない。



 結局のところその呪縛から一歩さえも逃れられない僕は、
 10年昔からやりなおすつもりで音楽を作るしかないんだ。


 という気がし始めた今日この頃。


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音楽の付き合い方と人の付き合い方

 
 音楽に詳しいわけでもないけれど、音楽が好きで、音楽に対してひどく素敵な感受性を持っている人を身近に知っている。そうした現実を改めて思い知った時に、当時徐々に変わりつつあった、作り手側の凝り固まった排他的な音楽観が、決定的に変わった気がする。
 音楽ってもっと、ふしぎで、多彩で、自由なものだなぁ。


 人の数だけ音楽の捉え方があるのなら、自分が音楽をどう捉えるかというのは、自分が他人をどう捉えるかという事だな、とも気付いた。音楽の内容、他人の人柄がどうだという事ではなく、単純に 「好きなものもあれば、嫌いなものもある」(c)スネークマンショー という事であったり、特定の音楽を盲信したり、毛嫌いしたり、それはそのまま、一途であったり、人嫌いであったり、といった人間性、その人の性格の表れでもあるんだろうなぁ、と気付いた。

 だから自分の中で、様々な種類の音楽に対する感受性が素敵に育てば、恐らく同様に、様々な種類の人間に対して素敵な感受性を持っていられるんじゃないかとも思う。




 ………まあ、そう理解すると同時に、音楽なんて、苦労して作るよりも好きな曲を聴いてる方がもっと幸せだ、と思うようになって、音楽制作に対するモチベーションがそれまでに増して致命的に下がってしまったのだけど。


 一昨年あたりからじわじわと、そんな状態を進めてきたのだれど、モチベーションの低下の波もようやく引いてくれたのか、

 上で書いた構図の中で、自分はその音楽というやつを作れるんだ。という喜びを持てるようになって、それを音楽制作の理由に出来るようになってきた気がする。それまでは自分の中の価値観だけで音楽を作っていたから周りの音にほとんど興味がなかったけれど、共生というのか、無意識にあった無駄な境界線や区切りが、このまま自分の中から無くなるといい。

 早くいろんな曲つくりたいな。


精神的凝り性=集中する=肩が凝る=体質的凝り性

 
 レコ3日目である昨日は、終わったあとに、プロデューサーのタカハシさん、デザイナーの諏訪間さん、作詞のinterfaceさんも加わって、みんなでステーキ食いに行きました。


 今日は、前夜が久しぶりの酒だったので、耳の調子も宜しくないということで、別件のリミックスにちょっと手をつけたりなんかしつつ、この所あんまり眠れていなかったので、ちょっとまったり休養入れてました。ディーラーから来た音楽アプリの新製品案内を読みながら物欲と戯れたり。

 最近のソフトは、なんていうかもう、簡単にそれっぽい音が出るものばかりになってきて、逆に「それっぽい」音楽なんて一昔前は個人で作るのはちょっと大変だったけど、今じゃ本当に簡単になっちゃって、作る時に払った労力が必ずしも受け手からの有り難がられ方に比例しないっていう状況は、音楽に限らずいろんな意味で正しいはずだなぁと感じる。




 なんだけど、そうすると、良いとされるものを作るにあたって、そんなに労力が必要無いっていうんじゃ、張り合いが無いのは確かだなぁ。僕みたく凝り性の人間にとって、今までは凝った分だけ分かりやすい完成度が得られて満足感も比例したはずが、今となっては簡単にソフトがそれなりの完成度を出しちゃうものだから、それでも結局なにかに凝らないと自分の作品になった気がしなくて、結果的に、良いとされる部分とあんまり関係ないであろう自己満足な部分を凝り続けることになっちゃって、

 凝ること、凝る内容自体が間違っているとは思わないけど、自分の作品にしたくて凝った結果が「作品のわかりやすい完成度」を阻害したかもしれないと思ったりなんかすると、なんだか不毛な気分になる。だって、もし凝らない方が客観的にいい結果が出るんだとしたら、それでも自分のために凝らざるを得ない側としては、なんだか宿命的にダメ出しされている気分になっちゃう。

 要するに凝っている時間が必要なんだな。その過程を経ないと自分の出した結果を客観的に信用出来ないっていうのが、凝り性の人間に多い精神構造なのかもしんない。




 なかなか気楽になれないという面倒くさい性格に辟易………する間もなく人生を過ごさなきゃならないっていうのが、時の流れの残酷さだなぁ、なんて思いもしつつ、今日という日も、もう終わりなのだなあ。


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