studioCampanella blog

どうも生きづらい貴方と僕と音楽と

2004-12

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猫・続き

 
こないだのつづき。


 ペットを飼ったことが無いわけではないけど、犬猫を飼ったことはない。だから、そのヴィジュアルとしての可愛らしさ以上のものを彼らに感じた事は特になかったのだけど、最近はさすがに、猫、特に子猫が可愛いというのを、確かに実感するようになったよ。
 ここ数ヶ月ですっかり、連中が四六時中家の中に居座る生活になって、まったく、ベッドで毛布をかぶった自分の足の間に3匹も猫がいる状況なんて、想像したこともなかった。


 しかしだからといって、ペットかのように感情移入なんか、しちゃぁいけないよね。
 つまり、僕が連中の人格を無視して自分に都合良い存在として心の中で扱ってしまう、そのことの嫌悪感から逃れるため、そして恐らくは急に連中が現れなくなった時のために、僕はあくまで連中に名前をつけずに、人見知り程度の扱いをしている。
 やつらはあくまで見知らぬ他人、小煩く可愛い動くオブジェだ。




 そんな距離感でいるのだけど、実は最近になって、妙な感情移入というのか、なんだか急に仲間感覚のようなものを感じてしまった。 仲間感覚?


___________________


 感情移入、ったって連中、白猫弟以外は大して懐きもしないし、子猫はいくら可愛いったって見た目や仕草が可愛いだけじゃ感情移入なんざ出来ないよ。白猫姉は憎らしい顔で威嚇してくるしで、やつらは全く愛玩対象じゃない。むしろ隣の部屋を占拠されっぱなしで、最近はどっちかっつうと邪魔だと思うことも多い。

 それでも、僕もやつらも、一度きりの生涯における今この時期のこの時間、それを儚くも無慈悲に消費するにあたり、お互いが存在するこの場所を、選択している。そういう実感が何故かふっと生まれちゃった。おまえらがどこの誰だか知らないが、まあ外は寒いしここは暖かいな。実にそれだけなのに、共有の業を感じてしまう同情的な仲間感覚、それが猫風情を相手にふっと生まれてしまって、和んで終わらせときゃいいものを、なんだか急に可笑しくなってしまった。


 だってさ、人間でも同じだよね、これ。渋谷のハチ公前に座ってみたところで同じはずなんだけどな。満員電車に揺られてみたって同じだ。上と同じ理屈で、周囲の人間はみんな、そこに居るだけで仲間だ。気ままで自分勝手だろうが、近寄っただけで威嚇されようが、そこに居るやつはそこに居るだけで仲間だ。
 いや、だって、俺らみんな人生を少しずつ終わらせている最中なんだもの。今という時間を各々のノスタルジーの向こうに追いやりながら、訥々と生命を消費して生きている。なんて哀しい。時間はすぐ経ってしまうし、僕らはいつまでもこの世界にいられない。なんて切ない。だから、これは同情だ。相手にも己にも等しく同情をかけるこの感覚。共有の業ゆえの、愛すべき仲間感覚。共有の業っていうのは、つまり死のことだったんだね。

 ……この仲間感覚は、理屈じゃ簡単だけど、実感を得ることはあんまり無い。
 普段一体、どこに隠れちゃうんだろうか。



___________________



 まあ一時の気の迷いでもいいんだけど、こんな風にまがりなりにも博愛主義めいた事を改めて実感しちゃうんであれば、僕は先に、人として、人間相手にこれをいくらでも実感するべきだった。猫なんざ出る幕じゃない。いくらでも実感しなきゃいけなかった。なのに、なんでだろうね、いつのまにかだ。人間相手にこんな博愛を生暖かく実感して生きるには、いつのまにか、何かが邪魔をするようになったんだと思う。
 電車に乗ったら後ろのおっさんがタマネギ臭かったんだ。なんでそんな臭いすんだよ、と、ああ、まったく不快だった。こんな人間と僕は仲間であるものか。おお、それだ。そう言いたいんだ。自分は違うと言いたいんだ。だから仲間感覚が無い。四海兄弟の精神は今時、それぞれの自尊心の遙か彼方だ。

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BB%CD%B3%A4%B7%BB%C4%EF&kind=jn


 相手と自分とが違うことなんて第三者が見りゃ解ることなのに、なんでわざわざ誰にも見えぬ心の中で、自尊心様のために不快を表明してみせねばならんのか。くだらないことだ。
 ここで悪さをしているのはその自尊心というやつで、己が価値観で物事を判断しているつもりで実は自尊心にお伺いを立てているうちは、この不快から逃れられない。つまり、タマネギくさいのはイヤだという価値観がおっさんを嫌うんじゃない。タマネギくさいのはイヤだという己の価値観が己の自尊心を刺激して、自分の都合で勝手におっさんを嫌うんだ。はき違えちゃいけない。その嘘は醜いんだ。その嘘に気付かずに価値観なんぞを振り回すと醜いんだ。~~に嫌悪感を感じるとか~~がむかつくとか。そう本気で言えることじゃない。
 まあタマネギくさいのは、多分人間生理的にイヤだと思うけど。

 だから、こうだ。電車の中で化粧する頭の悪そうな女が、自分を注意する人間に対し口答えすべき内容は、「そんなの価値観の違いだしー」 ではなく、「あんたの自尊心を押しつけるな!」 だ。うわーかっこいい!むかつく!





 ………無駄な不快から逃れ、会うひと誰にでも優しく在れる。どうしてもそれを目指したくなるのは、死ぬ準備がひとつ整う快感と安堵が、そこにはあるからだと思う。
 なんだか宗教めいてきたなぁ。いや、人生の幸福や成就なんてものは、宗教なんぞに頼らずに自分で考えたい。








 なんか、猫と遊んでただけなんだけどなぁ。
 こういうジャンルの事を今更考えちゃうなんて、ちょっとショック。



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 うちに堂々と家宅侵入を繰り返す猫ぎみたち、はじめは白猫の姉弟でやってきた。
 あとから縞々の雄猫もやってきて、3匹でくつろぐようになり、そのうちに、あれ、縞々がいなくなったなぁと思ったら、白猫姉がシャーシャーと僕を威嚇してくるようになって………そしたらあのメス猫、1ヶ月くらいして、背中が縞々で腹が白い子猫を二匹、つれてきた。
 ひとんちでセックスすんなよ。



ひとんちのベッドでこの威嚇っぷり



左から白猫姉、子猫弟、子猫姉



縞々雄猫が初めてやってきた時。ちょっと引いている白猫弟




 縞々雄猫 ―┬― 白猫姉   白猫弟
          │
       ┌―┴―┐
     子猫姉  子猫弟



 あれから縞々雄猫はたまに来ていたみたいなんだけど、白猫姉にシャーシャー威嚇されてベランダで追い返されていた。あいつ凛々しい顔した美猫だったのになぁ、でも生まれた子猫二匹はこれもどうやら姉弟で、子猫姉のほうは父に似て美猫だ。
 子猫弟は実に気弱な顔つきで、背中に10円ハゲみたいに小さな白い斑点がひとつ。気弱で眠そうなタレ目は、叔父である白猫弟に似ていると思う。

 この白猫弟が、はじめ姉弟で現れた時は、白猫姉の後ろにずっと隠れているような、やっぱり気弱なやつだったのに、今では僕の足に絡みついて一番懐いている。所詮畜生だよね。



 つづく。



「間」

 
 空間を押し開く唄声、

 鳶のように漂いながら唄を追う笛、

 中空に足掛かりを穿つようにして唄を支える三絃、



 邦楽というのは、楽音を発想する段階から非常に洗練されているなぁ。
 それぞれの楽器の音楽的役割を聴き取ると、あの緊張感に満ちた空間がどう維持されているのかが解って、面白く感じると同時に、美しさに舌を巻くよ。





 地唄舞というのをTVで観たのだけど、これが凄かった。

 舞というのも、楽器演奏と同じように、一呼吸一呼吸の動作がそれぞれ「間」を持ち、表していると思う。「間」というのは、

  様々な精神的距離感を咀嚼し第三者(普遍的立場)として事象を捉え直し、
  そうして出てきた心象を象徴した空間、

 という無意識の複雑な計算結果だ。
 別段これは文章化しなくてもやはり漠然と感じることで、人として自然に培う感性なんだなあ。



 あの動きは多くの場合、伴奏とは別の時間軸でありながらも楽音に呼応していて、それは紛れもなく高度に特化したリズム感だ。タイミングとして「正解」が確かにあるし、観ていてポリリズム的な快感がある。
 しかしその正解を求める事が出来るのは、心臓の鼓動に由来するプリミティブな「体が納得するリズム」ではなくて、もう少し高度な、精神性を背景とした意志決定に由来した、「精神が納得するリズム」だ。だから計算結果としての「間」や距離感の概念が生きた、複雑でより相対的なものになっているんだと解る。

 雅楽にせよ能楽にせよ舞台音楽にせよそうで、しかし民謡なんかではそうでない事も多いということを考えると、芸能として昇華をはかる上で意図的に精神性を重視して音楽表現を行ったんだなと思うし、そうするに至った「精神に対してストイックな精神性」というものが、自分は好きだなぁ。勿論民謡も大好きだけど、最近ああいった芸能に興味が強く湧いてきた。
 日常で耳慣れた西洋のリズム感に、ずっと食傷しているというのもあるけれど。




 日本人はリズム感が無いとよく言われるけれど、この距離感というか、間の選択のセンスというのがあって、民謡なんかでも、ちゃんと聴いてみるとあれは凄くスタイリッシュだというのが解る。ノリが求めればホイホイと拍を変えて柔軟に小気味よく進む。4/4にいきなり3/4や5/4を挟む、炭坑節「月が出た出た~月が~出た~ヨイヨイ」の次に来るのなんか正にそうだし、フレーズのきりが良いからといって直後の裏拍からいきなり元の流れに戻ったりすることも多い。というか、全体的に2/4拍子だからしょっちゅう4/4と2/4を行ったり来たりするもんだし。自由で伸びやかで気持ち良いよね。
 パット・メセニー・グループを聴いて感じた音楽的自由度と同じ、つまり歌心こそを優先してリズムを組み立てるという柔軟性、しなやかな音楽性が、民謡にもあるよ。ダイソーで100円でCDが買えちゃうよ。




 日本の音楽の事を考えるようになって、自分の音楽制作の上でも、音の表現や間の感じ方、その辺りをより深く考えるようになったなぁ。と思います。4/4拍子、4小節区切り、そういうのは、もちろん悪くないけど、囚われちゃうと画一的で詰まらない音楽性の範囲でしか曲が作れなくなっちゃうんじゃないか、と思う。大事なのは歌心で、歌心には「間」が必要だ。



冬と家

 
 やあ、ついにコートを出しました。

 ……って遅いかもしれない。まあどうせ週に2、3回しか家から外に出ないヒッキーですよ。おかげで外に出るたび新鮮だ。さみしい。


 春夏秋冬、どの季節も好きだけど、夏と冬は服装にあまり気を使わなくて済むから、楽で良いなぁ。
 特に冬は汗かかないし、体臭も無い方(とよく言われる)なので、ちょっと外出るくらいならいちいち洗った服に変えなくても良いし、大体コートにマフラーだから外から中の服はあんまり見えないし、極端に言えば中着てなくてもそんなにバレない。




 いや。


 そんなわけで、猫の餌が切れたのでコンビニまで買いに行く。……ちゃんと服を着て。
 裏通りのせいか、最近よくミニパトが巡回してるよ。いや、別に関係ないけど。妙にゆっくり走ってくるライトがあったら、それは奴だ。






 1年ぶりに袖を通したコートは、つい昨日も着たかのように体に馴染んで、なんだ、あれってもう1年前の事なのか、なんて、色々な事を思い出しながら歩いたよ。


 冬の冷気は良いね。なんだかこう、寂しさ、人恋しさが一段階昇華されて。
 肩をすぼめて目を細めれば、息の白さも嬉しいよ。雪でも降れば、なお良い。

 雨も良いね。冬の雨は、家に帰ったあとの静けさが嬉しい。



 まあ、ほとんど家に居るから外に出るたびそんな事を感じるのかも知れない、と思うと、ちょっと人間としては情けないような気もした。
 とはいえ、普段接していないからこそ有り難みを実感する、というのは、親元を離れて過ごしてきたこの5年ほどで、家庭というものの偉大さ、その維持にかける親への到底表し尽くせない感謝、それらを強く実感出来るようになった……という事からもよくわかる。


 ああ、そう。そうだった。いつかそういう感謝をテーマにした作品を作りたい、とここ数年ずっと思ってるんだ。それは、大事なことだ。今後5年のうちにはやらなければいけないと思ってる……時間は無限じゃないのだし。


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